Feb. 2016 [7inch] 3titles Released!
裕福なレバノン人家系出身のロニー・ナズララ(Ronnie Nasralla)のレーベルBMNは、当時マネージメントをしていたグループ、Blues Busters, MaytalsとNasrallaの頭文字をとったものである。その他のレーベルにSunshineとSoulもある。
ロニーは多くのプロデューサーによって正当な扱いを受けなかったアーティストと、音楽そのものをサポートする目的で音楽業界を支え、生み出される利益の半分をアーティストに還元していたと語る。
それは当時のジャマイカの音楽業界の基準では非常に稀なことであった。
1930年に由緒正しき家系で生まれたロニーは、アメリカのポップシンガーのポール・アンカと親戚で、古くからの友人は後の首相となるEdward Seaga、バイロン・リーとは学校で会い一緒にバイロン・リー・アンド・ザ・ドラゴネアーズを始めている。
1960年代、多くの才能と長い足に恵まれたロニーは、ショー・ビジネス、ダンサー、俳優、マーケティング、スポーツ(クリケット、サッカー、バドミントン、スカッシュ、ラケッツ、テニス、野球、ソフトボール、フェンシング)で頭角を現し、キングストンのショウビジネスの力持ちであった。
多くの人に思い出されるのはDance The Skaというアルバム及び小冊子で、スカの踊り方とダンスのレクチャーが写真と解説付きで載っているバイロン・リー・プロデュースのスカ・アルバムである。 そこでダンスしているカップルがロニーとバイロン・リーの奥様であるSheila Leeである。ちなみにSheila LeeはFederal RecordsのKhouri家系のお嬢様である。
その企画とは、当時文化大臣(Minister of Culture)だったEdward Seagaに西キングストンのスカシーンを見せ、政府のプロモーションとしてジャマイカ・スカを売り出そうと、アメリカのアトランティク・レコーズの重役3人を迎えアップタウンのGlass Bucketクラブで特別なダンスパーティを開催し、その後アメリカに渡りいくつかのテレビ局、有名なクラブなどでジャマイカのスカダンスを披露しジャマイカ文化を売り出すというものである。
また、記念すべき1962年公開のJames Bondシリーズの第一作目「007 ドクター・ノー」、キングストンで撮られた名作であるが、ナイトクラブのシーンでバイロン・リーが演奏しているのを見ることができる。それをプロデュースしたのも彼である。ちなみにダンスしているのが彼と、「Mule Train」のカウント・プリンス・ミラーだそうである。その事で「ドクター・ノーのオーディションに無名のころのボブ・マーリーが来たんだけど、合わないんで落としたよー、どうだ面白いだろ」と笑っていた。それ以外のシーンでも色々とオーガナイズしたようである。
その数年後、音楽にも大いに興味があった後の首相Edward SeagaがWIRL(West Indies Record Limited)を設立し、数年後にGeorge Bensonに売却した。しかしEdward Seagaはスタジオを所有しておらず、ロニーにスタジオ製作を持ちかけてきたので、裏にGraham Goodallと一緒にスタジオを作った。後に全施設をByron Leeに売却し、それがDynamic Soundsになる。そのスタジオは地元のトップアーティストはもちろん、ローリング・ストーンズといったビッグネームもプレイした国際的なスタジオとなる。
ロニーは音楽を始めた頃は歌手とパーカッションをしていたが、バンドは旅行が多く、自身はスポーツもしたかったので、ミュージシャンはやめてマネージメントに徹することにした。
ミスター・ナズララ曰く、麻薬は絶対ダメだ。Toots Hibbertは自転車に乗っているところを大麻所持で逮捕され、リッチモンド・ファーム刑務所に収監された。そこで「刑務所の管理者と話をつけて刑務所でバイロン・リーのショウを開催することにしたんだ、Tootsがギターを持って歌ったんだよ、刑務所の中で、面白かったよ」と語った。2年後、出所したTootsに「刑務所で作った曲をレコーディングしよう」と囚人番号「54-46」を歌にすることを提案したら「そんなことしたら、皆に刑務所にいたことがばれるから嫌だ」と返されたが、「大丈夫、皆すでに知ってるから!」とくつがえし、レスリー・コングのとこで俺がプロデュースしたら大ヒットしたよ。と語った。
広告とマーケティングを本業とし、多くのアーティストのマネージメントを行い、Sonny BradshowとByron Leeと共にJamaica Federation of Musiciansを設立。ナイトクラブで長い時間ドリンクも食事もだされずに働いていたミュージシャンのために、最長で5時間、食事とドリンクを付け、給与は半分前払いで契約書も作るという新しいルールを打ち出し、それでも待遇の悪いクラブには、介入して閉鎖させた。そのようにジャマイカの音楽ビジネスの根本を変えた。
それらの事から、彼は他とは違ったアプローチで音楽業界に高いレベルの貢献をしたことが納得できる。
最も大事なのは他のプロデューサーから不当な扱いを受けたアーティストを助けることだと考え、ダブストアレコーズの契約オファーの話をすると、何十年も会っていないLlans Thelwellと連絡をとり遠方より一緒にミーティングに現れた姿勢が、一貫した彼のやり方を表している。
ミスター・ナズララはジャマイカが誇る偉大なるジェントルマンであり、近年ジャマイカでTribute To The Greatsとしてその貢献を称えられた。素晴らしいことである。
彼が自身で書いた自伝が出版されているので是非読んでみてください。
1930年に由緒正しき家系で生まれたロニーは、アメリカのポップシンガーのポール・アンカと親戚で、古くからの友人は後の首相となるEdward Seaga、バイロン・リーとは学校で会い一緒にバイロン・リー・アンド・ザ・ドラゴネアーズを始めている。
1960年代、多くの才能と長い足に恵まれたロニーは、ショー・ビジネス、ダンサー、俳優、マーケティング、スポーツ(クリケット、サッカー、バドミントン、スカッシュ、ラケッツ、テニス、野球、ソフトボール、フェンシング)で頭角を現し、キングストンのショウビジネスの力持ちであった。
多くの人に思い出されるのはDance The Skaというアルバム及び小冊子で、スカの踊り方とダンスのレクチャーが写真と解説付きで載っているバイロン・リー・プロデュースのスカ・アルバムである。 そこでダンスしているカップルがロニーとバイロン・リーの奥様であるSheila Leeである。ちなみにSheila LeeはFederal RecordsのKhouri家系のお嬢様である。
その企画とは、当時文化大臣(Minister of Culture)だったEdward Seagaに西キングストンのスカシーンを見せ、政府のプロモーションとしてジャマイカ・スカを売り出そうと、アメリカのアトランティク・レコーズの重役3人を迎えアップタウンのGlass Bucketクラブで特別なダンスパーティを開催し、その後アメリカに渡りいくつかのテレビ局、有名なクラブなどでジャマイカのスカダンスを披露しジャマイカ文化を売り出すというものである。
また、記念すべき1962年公開のJames Bondシリーズの第一作目「007 ドクター・ノー」、キングストンで撮られた名作であるが、ナイトクラブのシーンでバイロン・リーが演奏しているのを見ることができる。それをプロデュースしたのも彼である。ちなみにダンスしているのが彼と、「Mule Train」のカウント・プリンス・ミラーだそうである。その事で「ドクター・ノーのオーディションに無名のころのボブ・マーリーが来たんだけど、合わないんで落としたよー、どうだ面白いだろ」と笑っていた。それ以外のシーンでも色々とオーガナイズしたようである。
その数年後、音楽にも大いに興味があった後の首相Edward SeagaがWIRL(West Indies Record Limited)を設立し、数年後にGeorge Bensonに売却した。しかしEdward Seagaはスタジオを所有しておらず、ロニーにスタジオ製作を持ちかけてきたので、裏にGraham Goodallと一緒にスタジオを作った。後に全施設をByron Leeに売却し、それがDynamic Soundsになる。そのスタジオは地元のトップアーティストはもちろん、ローリング・ストーンズといったビッグネームもプレイした国際的なスタジオとなる。
ロニーは音楽を始めた頃は歌手とパーカッションをしていたが、バンドは旅行が多く、自身はスポーツもしたかったので、ミュージシャンはやめてマネージメントに徹することにした。
ミスター・ナズララ曰く、麻薬は絶対ダメだ。Toots Hibbertは自転車に乗っているところを大麻所持で逮捕され、リッチモンド・ファーム刑務所に収監された。そこで「刑務所の管理者と話をつけて刑務所でバイロン・リーのショウを開催することにしたんだ、Tootsがギターを持って歌ったんだよ、刑務所の中で、面白かったよ」と語った。2年後、出所したTootsに「刑務所で作った曲をレコーディングしよう」と囚人番号「54-46」を歌にすることを提案したら「そんなことしたら、皆に刑務所にいたことがばれるから嫌だ」と返されたが、「大丈夫、皆すでに知ってるから!」とくつがえし、レスリー・コングのとこで俺がプロデュースしたら大ヒットしたよ。と語った。
広告とマーケティングを本業とし、多くのアーティストのマネージメントを行い、Sonny BradshowとByron Leeと共にJamaica Federation of Musiciansを設立。ナイトクラブで長い時間ドリンクも食事もだされずに働いていたミュージシャンのために、最長で5時間、食事とドリンクを付け、給与は半分前払いで契約書も作るという新しいルールを打ち出し、それでも待遇の悪いクラブには、介入して閉鎖させた。そのようにジャマイカの音楽ビジネスの根本を変えた。
それらの事から、彼は他とは違ったアプローチで音楽業界に高いレベルの貢献をしたことが納得できる。
最も大事なのは他のプロデューサーから不当な扱いを受けたアーティストを助けることだと考え、ダブストアレコーズの契約オファーの話をすると、何十年も会っていないLlans Thelwellと連絡をとり遠方より一緒にミーティングに現れた姿勢が、一貫した彼のやり方を表している。
ミスター・ナズララはジャマイカが誇る偉大なるジェントルマンであり、近年ジャマイカでTribute To The Greatsとしてその貢献を称えられた。素晴らしいことである。
彼が自身で書いた自伝が出版されているので是非読んでみてください。
Dub Store オリジナル BMNグッズ
BMN Photo Print size:203 x 254mm |
BMN ステッカー |
BMNのリリースを記念してノベルティに「Dub StoreオリジナルBMNグッズ」が加わりました!
ご購入金額に応じて選べます!Dub Storeオリジナルグッズについてはこちら→
※数に限りがございます。ノベルティの配布がすでに終了している場合はご了承ください。
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※数に限りがございます。ノベルティの配布がすでに終了している場合はご了承ください。
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